元旦の朝は、先ず本堂で新年のお勤めをし、檀信徒のみなさまと社会の安全、各家のご多幸をお祈りする。

 

今年は山田錦とみりんをブレンドしたお屠蘇をいただき、新年のお祝いをした。

 

祈祷会が終わって皆さんがお帰りになられてから、ゆっくりとお正月を過ごすのが我が家の恒例だ。

 

お酒、おせち料理、白味噌のお雑煮をいただき、年末ジャンボで300円をゲット、そして年賀状を見る。

昨今はSNSなどにより年賀状を出す人が少なくなったと云われるが、お正月に年賀状をいただくと嬉しく有難く思う。

 

そもそもは年が明けてから「あけまして」と書くものだったそうだ。

 

一言書き添えられたもの、ご家族の集合写真、近況報告、個性あふれる力作もあり、いただいた年賀状に心が温まる。

 

そんな中、友人からの年賀状に、心に刺さる言葉が書かれていた。

 

「これまでがこれからを決める」のではない。
「これからがこれまでを決める」のだ。(藤代聡麿)

 

東京オリンピックの年に生まれた私は、人生の後半戦を歩んでおり、故にこの言葉は新鮮で希望を感じた。おそらく友人もそうだったのだろう。

一般的には「これまで」という過去の上に「これから」という未来が成り立っていると考える。

 

「これまで」という過去の事実は変えられないし、消すこともできない。

 

しかし、「これから」の生き方次第で、「これまで」の意味が大きく変わると教えてくれている。

 

受験、就職、恋愛、結婚、出産、子育て、介護、病「あんなことがなければ・・・」と、過去の失敗を後悔したままの人生を過ごすのと、「あんなこともあったけれど・・・」と、感謝を持って人生を過ごすのでは、過去の失敗の意味が変わってくる。

 

 

過去・現在・未来という時間軸では、現在を基準に「これから」を考えるが、現在をいのちが終えようとする臨終の時とした場合はどうだろう。

 

「死んだら終わり」「死ねば無になる」と思うのであれば、どんなに充実した人生であったとしても、全て消えて無くなってしまうのであれば、生きてきた「これまで」が空しいものになってしまう。

 

死後が有るのか無いのか謎だらけではあるが、究極には死後の「これから」が人生の「これまで」の意味を決めることになる。

 

 

まもなく平成から新しい元号へと改元される。

 

失われた20年、天変地異、大災害、多くの方が亡くなられた。

 

私たちが「これから」の時代をどのように生きるのか、私たちの生き方次第で亡くなられた方のいのちの輝きも増すのではなかろうか。

 

なによりも死を意識して生きることで、生をより深く観じることができるだろう。

 

気付かなかった優しさに気付く、大切な人を大切に思う、当たり前だと思っていたことが有難いことだと思える、そのような心持でありたい。

 

ところで、死後もいのちは続くのだろうか?死んだら何処かへ往くのだろうか?

 

法華経には「死んでも死なないいのち」としてお釈迦さまの久遠のいのちが示されており、私たちもお釈迦さまと同じ、久遠のいのちを授かっていると説かれている。

 

どうやら、死んでも終わらないようだ。

 

そういえば、友人からの年賀状に「また飲みにいきましょう」と添えられていた。


山田錦で一杯やろう。

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    コメント
    新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。大変わかりすい文章で面白かったです🎵いいですねー☺
    • by 咀釈
    • 2019/01/09 7:08 PM
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