夏の夕暮れの空を眺めながら思う。

 

もし、自分が僧侶になっていなかったら、仏教に出会っていなかったら、何を考え、何を自分の軸として生きていただろうか。

 

僕はお寺の子として生まれ育ち、いつでも触れられる距離に仏教があったものの、きちんと向き合ったのは20代半ば。

 

それまでは、思い返すと漠然と生きていたし、生きていることが当たり前であった気がする。

 

 

 

幾つかの選択の後、宗門の大学へ進学し僧侶への道を歩み始めた時に、僕に見えた信仰の景色には、常に「死」を思うことが付きまとっていた。


ただ生きているだけの学生には、遠い世界の事のようだった。

 

と同時に、ただ生きている今の世界も、どこか遠くの事のようで、「生」を感じられずにいた。

 

それでも少しずつ、学んだことは染み込んでいく。

 

「死」を思うことへの違和感が薄くなっていく。

 

死を思うことが日常になっていく。

 

 

 

「後世(ごせ)をおそれる」という言葉。


自分が生きているこの「生」が終わった後、一体どうなるのか? という素朴な疑問。


隣り合わせの「死」の向こう側を思う。

 

自分の至らなさを、仏教を学べば学ぶほど思い知るが故に、自らの中での死への怖れは、加速度的に大きくなっていき、その影に覆い隠されてしまうような感覚。

 

それを、あるいは「絶望」と呼ぶべきか。

 

 

と同時に、その影に明かりを灯して闇を払い、「生」を自らのものとして取り戻してくれたのも、僕にとっては仏教だった。

 

死を思う事は、生を思う事。

 

僕には今、その真ん中に仏教があり、ありがたいかな、その軸は微塵も動く事はない。

 

沈んでいく夕日を見送りながら、あらためて思う。

 

もし、自分が僧侶になっていなかったら、仏教に出会っていなかったら、何を考え、何を自分の軸として生きていただろうか。

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