カレーは、どの時点でカレーになるのだろう?

 

みじん切りにしたタマネギを炒めながら、ふと、疑問がわいた。

『スパイスを入れた瞬間からです』
『作りたいと思った瞬間からカレーです』
『食べ終わってから、これはカレーだったと気づくのだ』

 

もはや哲学的とも言えるコメントが並ぶ。

 

カレーのことはよく知っているはずなのに、カレーの境界線は人によって様々のようだ。

 

きっと、思っている以上に世の中の「境界線」は曖昧だ。

もしかすると、生と死の「境界線」も曖昧なのかもしれない。

 

大学生のとき、父方の祖父が亡くなった。

 

明治生まれ、軍人として戦争を経験した人だった。

 

90歳を過ぎてからガンを患い、自宅での介護をうけながら過ごしていた。

 

いつしか太ももが私の腕ほどに痩せ細り、ベッドの上から動けなくなっていった。

 


人は老衰で死が近づくと、呼吸が不規則になり、下顎呼吸(かがくこきゅう)というパクパクと下あごを動かすような呼吸が始まる。

 

典型的な「お迎え」の合図である。

 

祖父にもいよいよそのときがやってきた。

 

祖父の寄せては返す呼吸の波が弱くなっていき、そのまま振り子が徐々に運動をやめるように静かに息を引き取った。

 

死はもっと劇的なものかと思っていた。

 

静かに眠っているような祖父の姿を見て、グラデーションのような生と死の境界線の曖昧さに戸惑ったことを覚えている。

 

 

「〇時○分ご臨終です」

 

少し後に駆けつけた医師のこの言葉によって私の中で「境界線」が引かれたとき、はじめて涙があふれた。

生と死の「境界線」は曖昧だ。

 

しかし、生と死の「境界線」を自分で引くことは出来るのだろうか。

 

いや、きっと出来ないのではないだろうか。

 

だからこそ、医師の言葉であり、葬儀という儀式によって「境界線」を引くことが必要なのだと思う。

 

そこに関わっていく者として、どう自分自身の死生観を醸成していくか、どう伝えていくか、これから仏教死生観研究会で研鑽をしていきたいと思う。

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