何年も前に、特徴的な瞑想のリトリート(合宿形式の瞑想実践)に参加した。

 

そのリトリートは、10日間、朝起きてから寝るまで、ひたすら瞑想の実践をする。

 

特徴的なのは、「聖なる沈黙」と名付けられたその期間中、誰とも会話をしてはいけないことである。アイコンタクトなど、その他のコミュニケーションも全て禁止される。

 

また、携帯電話、スマートフォンはもちろん、筆記用具や本などの読みものに類するものも禁止、運動も禁止であり、ひたすら瞑想の実践を行うのみのストイックな時間だった。

 

始まった頃は、何とも耐え難い時間だった。

 

瞑想以外にすることもなく、周囲の人と話すこともできない。運動も禁止されているため、ヒマつぶしもできない。

 

外に置いてきたことを1つ1つ思い出しては不安になる。

 

そして、周囲の人たちと会話はできないが、共同生活のため、それでも人の動きなどが気になっていた。

 

ところが、リトリートが進み、自分の心が落ち着いたときには、そうしたことも気にならなくなった。

 

環境や周囲の状況は何ら変化がない。

 

では、何が変わったのか?

 

リトリートが進むにつれて、心が穏やかになり、周りのことにいちいち反応をすることが減ってきたのだ。

人は自身以外のものに原因を求め、様々な苦を抱く。

 

仏教では、こうした苦は全て、自身の心(反応)が生み出していると考える。

 

つまり、「苦」は、外部から「苦」として持ち込まれるものではなく、外部の現象に対する「自身の心の反応」により作られるもの、ということである。

 

ブッダは「死」が「苦」の1つであると説いた。

 

しかし、いわゆる医学的な死で定義されるような「生命的機能が不可逆的に失われた状態」は、ただの結果である。この、死の状態そのものは、先に述べた仏教でいうところの「苦」とはいえない。

 

「死」が何故「苦」であるのか。

 

それは、「生」からの離別が近づくことに苦の本質があるのではないか。

 

自身が生から離別するということ、それに加えて親しい者との別れなど、生前に関わっていたものを「不条理に」手離すことになる。

 

そのことに対する不安や悲しみこそが、「死」を取り巻く苦の正体ではないだろうか。

 

「死の体験旅行」においても、その中で、自身がこれまで大切にしてきたものを手離す。

 

参加者が最も苦悩する、核心ともいえる時間である。

 

それはまさに、仏教的な「苦」の1つとしての「死」を体験、再現する作業である。

 

先に述べたように、「死」という現象は必然的であり、不可逆的である。

 

避けては通れないものであるし、その結果が覆ることはない。

 

だからこそ、死を迎えるにあたって、自身が苦しむ本当の原因が「自身の心」にあるのだとしたら……。

 

この苦をどうしたら良いのか。そのためには、まず自身の観察を行うしかない。

 

自身が何を大切にしているのか。

 

何からであれば手離せるのか。

 

手離したときにどのような思いを抱くのか。

 

その苦を捉えたときにこそ、自身の「死」には泰然と、そして「大切なもの」には執着ではなく慈悲を以て、向かい会えるのではないか。

 

―水に在る蓮の華が汚泥に染まらず美しい華を咲かせるように―
「不染世間法 如蓮華在水」『妙法蓮華経』従地涌出品第十五より

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