気がつくとメンバーも一周し、2回目の担当となりました。


山梨県中央市妙性寺住職、近藤玄純と申します。

 

昨年の7月に祖母を亡くしました。

 

母方の祖母で、私をとにかく溺愛してくれた祖母でした。

 

祖母の家に行っては周囲の寺社のお祭り、買い物などに過剰なほどひたすら連れて行ってくれました。

 

私の願いは何でも聞いて叶えてくれました。

 

今でも祖母の暮らしていた街に行くと祖母との思い出がそこかしこにあります。

 

中学生になり部活が忙しくなると祖母の家に行く機会も減り、高校に進学すると益々その機会はなくなっていきました。

 

大人に近づけば近づくほどその傾向は強くなり、正月くらいしか会わなくなっていました。

 

二十歳を超えたあたりで両親の離婚が決まり、父と一緒に生活することになった私は余計祖母に会うことがなくなり、数年は会わなかった様に思います。

 

 

祖母に会った次のタイミングは、母が大病をしてその見舞いの時でした。

 

その時、祖母の様子は大分変わっていて、私にお金を借りにきたことは今でも鮮明に覚えています。

 

私も僧侶駆け出しで、今よりも収入が少なく貸すお金もなかったのですが、困っている祖母を放って置けなかったので貸すことにしました。

 

そのお金も返ってくるとは思っていませんでしたが、今までの恩返しも込めて渡しました。

 

 

母は奇跡的に後遺症も無く退院し日常生活に戻っていきますが、祖母とは益々疎遠になりました。その後、日蓮宗の荒行堂に入行する時など節目節目では会っていましたが、日常生活の中からは完全に欠落しました。

 

30歳の年に結婚し、長女が生まれましたが会う頻度も変わらず、おまけに結婚式にも呼べない状況でした。

 

今を起点とし昔を振り返ると、今の想いで昔の祖母を見てしまうので申し訳なくなるだけですが、恐らくその時の想いは然して気にしていなかったのでしょう。

 

 

それからも住職になったり、妹が結婚したりとそれなりに会う機会はあってもいい様に思うのですが、その時の私の生活の中に「祖母」という単語は存在していなかったのだと思います。

 

大正14年の生まれの祖母は、戦争を体験し戦後を迎えます。

 

その後、母を出産しながら見栄っ張りな性格で母を育ててきました。

 

祖父と祖母は離婚していたと聞いていたので、私は祖父には一度も会うこともなく育ってきました。

 

これは後に祖父が他界したことで判明するのですが、実は祖父と祖母はいわゆる内縁の状態で、それを知ったのはつい最近のことです。

 

 

齢九十を過ぎだんだんと生活することが厳しくなってきた祖母ですが、母も奇跡的に後遺症もなく病から生還したとはいえ、その2人を一緒に居させるということにリスクを感じつつも、手を打たないまま数年を経過させてしまいます。

 

施設に入ってもらうために介護認定を取ったりもしたのですが、見栄っ張りの性格が災いしていつもの生活レベルより高度な形で面談に臨んでしまい、認定も一番低い認定になってしまいました。

 

お寺に引き取ってという選択肢もあったかもしれませんが、両親との関係性もある上に小さいお寺で経済的に余裕も無く、そこまで手が回らないというのが現状でした。

 

いよいよ祖母も認知症の症状が現れ、施設を探し始めようというところで他界しました。

 

普段、お寺で住職としてたくさんの人の「死」に向き合い、偉そうに法話までして、「親を大事に」とか「感謝の気持ちを忘れずに」なんて言っている私自身が、それを出来てないことに嫌気がさしています。

 

あんなに可愛がってくれた祖母に何の恩返しが出来たのか、祖母の人生を後から知ると、非常に苦しい時期があったのではないかと感じられ、悔しさと後悔しかありません。

 

 

仏教では因果を説きます。

 

全ては必然である。

 

私はその必然の中にただ甘えていたのではないか、と自省する日々が続いています。

 

私自身の人生において祖母や周囲の人とどう関わり、私を私たらしめているのかを考えることは、私の今後の人生での大きなテーマです。

 

僧侶として、人間としてやるべきことを欠かさずに、これからも考えていこうと思います。

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