小学生か中学生の頃、社会の授業だったと思いますが、タイには固有の暦があると聞いて「ずいぶんややこしいな」と感じた記憶があります。

後になって知ると、それはお釈迦さまが亡くなった年、または翌年を元年とする仏暦で、タイだけでなくラオス・カンボジア・ミャンマー・スリランカなどの仏教国で使われているのだそうです。

 

お釈迦さまの正確な生没年は諸説あるものの東南アジアでは紀元前544年となっており、国によって没年が元年だったり翌年が元年だったりするようで、ややこしさに拍車がかかっています。

 

とはいえ西暦に543、または544を足すだけなのに対して、日本は数十年おきに元号が変わります。

 

頂きものの今年のカレンダーを見ると、2019年という西暦とともに、「平成31年・昭和94年・大正108年」と書かれています。

 

来年からは「令和」まで加わるのですから、仏暦の比ではないややこしさのはずです。

 

けれど自分が生まれた国の馴染みある暦は「当たり前」に感じ、他国の見慣れぬ暦はついつい「ややこしい」と感じてしまいます。

 

 

話は変わりますが、やはり小中学生の頃に読書少年だった私は、「一巻の終わり」という言葉に違和感を感じていました。

 

何しろ中学時代の目標が「図書室の本を全て読む」だったので(当然達成できませんでしたが)、何巻にもわたる長編の作品も読んでいました。

ですので屁理屈ですが、「一巻が終わったら二巻が始まるじゃないか」などと慣用句にケチをつけていたのです。

 

まあ本であればいつか必ず終わりがきますが、時間に終わりはありません。

 

昭和が終わったのも平成が終わるのも、私たちが勝手にそこを区切りとしているだけですし、1時間や1日や1年という区切りも人間が勝手に決めているだけのことです。

 

人の生涯も、医師が「ご臨終です」と死亡診断をした時に終わりを迎えるのですが、果たしてそれは本当に「終わり」なのでしょうか?

 

もちろん個体の生命としては終わりを迎えるのですが、子や孫がいれば爐い里銑瓩受け継がれています。

 

直接の子孫がいなくても、人は他者と縁をつむぎながら生きていますので、その縁や思いが受け継がれていくことでしょう。

 

生命そのものは「一巻の終わり」であったとしても、その存在は無になってしまうわけではありません。

 

また仏教をはじめ、様々な宗教で爐い里銑瓩鮟えた後の世界が語り継がれています。

 

私は浄土真宗の僧侶ですので、「遥か西の彼方、極楽浄土に仏となって生まれ、縁ある人々を見守る存在になるのだ」と受け止めています。

 

仏としての「二巻の始まり」があると信じているのです。

 

 

40代も半ばになり、少しずつ親しい方が亡くなっていきます。

 

けれど「二巻目の世界」があるという思いに励まされ、いつ終わるかわからない「一巻目」を生きていける。

 

私はそう感じています。

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