2月15日は涅槃会、お釈迦様が入滅された日を迎えます。

 

私達も皆、いつか命終える日を迎えます。

 

誰しもが必ず…

 

きっかけは様々でも、いつの頃からか自分もいつかは命終える日が来るのだ…ということを私達は知っています。

 

けれど、自分自身が必ず死ぬ身だと本当に自覚しているか?と問われたら、どうでしょうか?

 

その事実を受け入れているかどうかは別として、限りある命なのだということは、なんとなくわかっているつもりで日々を生きているのではないでしょうか。

 

私自身、時折思い出しドキリとする歌があります。

 

「おいとまを いただきますと 戸をしめて 出てゆくやうに ゆかぬなり 生は」
斎藤史 歌集「ひたくれなゐ」

 

 

この命に限りがあるということはなんとなくわかっていても、自分の寿命がどのくらいなのか、いつ終わるのかは、誰にもわからないことです。

 

この歌を思い出す度に、確かにこの言葉そのままなのに、そうなのだ…と感じたことは、今までにもあったはずなのに、今この瞬間はそんなことはすっかり忘れて生きている自分に愕然とします。

 

生きている以上、いつかは終え往く命。

 

身近な人の死はもちろんのこと、自分の死を見つめることは、確かに怖く難しいことかもしれません。

 

けれど、私達が日々生きているということは、日々死を背負いながら生きているということでもあります。

 

 

「死」も、そして「老い」や「病」も、私の都合にお構いなくやってきます。

 

「死の体験旅行」では、病を得て命終えるまでの過程を疑似体験していきます。

 

積み上げたものを総て手放し、生まれた時と同じ何も持たない私に還っていく旅ともいえるかもしれません。

 

日々の暮らしの中、ひととき立ち止まり「自らの死」を見つめることは、それぞれが生かされている今を浮き彫りにするとともに、自分の生き方や周りとの繋がりを見つめていきます。

 

そしてその「繋がりの中で生かされているいのち」として、これからの日々を「どう生きていくのか」を、深く問うことにもつながっていくように思います。

 

斎藤史の歌集「ひたくれなゐ」に、前述の句に続き

 

「死の淵(がわ)より 照明(てら)せばことに かがやきて ひたくれなゐの 生ならずやも」

 

という歌があります。

 

抗いようのない現実として「自分の死」を見据えた時、それぞれの前にどのような自分のすがたが、どのような世界が広がってくるのでしょうか…。

関連する記事
    コメント
    コメントする